日記・コラム・つぶやき

2017年7月30日 (日)

蓮、いまだ泥の中

朝、目が覚めて慌てた。
いけない、福岡に行く支度をしなければならない。
いろいろ段取りが山積みなのに、寝坊してしまったか。。。とそこまで考えながら、周囲を見て、現実を思い出した。

ああ、あれは夢だったのか。
大好きだった彼は、もういないどころか、会えなくなって20年近くが経つのか。

あまりにもリアルで、その世界で本当に生きているような夢だったので、すっかり現実と思い込んでしまった自分を蔑む気持ちがわいてくる。
と同時に文字通り滂沱の涙が溢れた。

なにに対して泣いているのか自分でも判らない。
しかし、自分の中の女の子の部分が、無意識という夢の中と、まだ本格的に脳が起きていない今の時間を使って、大暴れしていることだけは理解できた。
ごめんね、そんなに辛かったんだね。
話もきこうとせず、ただただ押し殺して、まるで無かったもののように扱ってきてごめんね。
そんな気持ちで、流れる涙をそのままにしていたら、本当の子どものように泣きじゃくっていた。

寝起きで、ゴーゴー泣いてる私っていったい・・・・

脳が目覚め、理性が起き出してくると、そんな自分が阿呆のように思えるが、それはそれで可愛いもんだと思った。

本当にこの20年間、私は底なし沼の中で全力で立ち泳ぎしているような日々を送っていた。

同じくらいの女性たちが、やれメイクだファッションだと、いかに男にモテようかと考えてる時代も。
同じくらいの仲間が旅行だ、コンサートだと週末や夏休みをどう楽しもうか考えているときも。

そして、ある程度の年齢になると結婚だ、出産だ、子どもの教育がどうした、と悩んでいる時代も。

私にあるのは、朝から晩までただただ働いて、仕事を評価し、認めてもらって安定した生活ができる収入を得るか。そして安定した収入が入るようになったら、節約して借金を返済し、心の平安を得られるのか、だけだった。

働いていれば同僚から遊びに誘われることもあった。
しかし、遊びに使うお金は私にはなかった。
東京でひとりで暮らしていたときでも、家賃や水道光熱費、ネット・携帯料金などのインフラを支払い、月々最低限にしてもらっている借金を返済すると、私の手元に残るのは多いときで6万。ひどいときは、4万だった。
その4万は次の給料までの食費と、職場への交通費も、化粧品代も含まれる。
派遣で働いていると、交通費は時給に含まれているからだ。
定期の方が安くなるのは解っていても、定期なんて買えない。
3ヶ月ごとの更新で次の更新があるかどうかもわからないし、何より食費がおぼつかないのに交通費にまとまったお金を使いたくない。
私にとっては、タバコもコーヒーも、たまに欲しくなる200円くらいのお菓子ですら、上等なものだった。

めちゃくちゃ残業して正社員の上司たちの会議まで呼ばれ、なぜか正社員の部下を持ち指導を行う派遣社員の私が、ちょっとした集まりや飲み会代までしぶるので、実家暮らしで働いた分だけお小遣いとして使えるような女子からは不評だった。
「そんなに貯めてどうするの?」「そんなに仕事ばっかりして楽しいですか?」
貯めてるんじゃない。マイナスがあるので埋めたら日々の余裕が無いんだ!
と彼女らに怒りをぶつけたところで、この究極の質問が来るだけだ。

「どうして、そんなにお金がないんですか」

この究極の疑問を、なんど反芻したことだろう。
逆に、私の人生でお金に余裕があったときがあったのだろうか。

私の父と母は地元から離れた都市で家庭を築いたので、実家や親戚たちからの援助は無かった。二人とも中学卒業で当たり前の年代だったし、父親は早くから職人の修行に入っていたので、収入はそれなりにあったと思う。

しかし、父親はいつも私たちに「金がない」「金を使うな」と口うるさく言い続けた。
給食費、修学旅行の積み立てなど義務教育とはいえ、親からもらってこいと言われる集金袋を父親に渡すと、お金を入れて渡してくれるまでに何十分も文句を言われた。

何度も何度もそんなことが続くので、集金袋を預けられたとき先生に「父親が積立金を『修学旅行なんて行ってもクソにもならん』と言ってお金を出したがらないから、この袋を渡すのが嫌だ」と言いつけたら、先生が夜に電話を掛けてくれた。
「なんでワシが電話にでにゃならんのや!(出ないといけないのか)お前でとけ」と母に振ろうとしたが、私が「お父さんと話したいって」と無理やり受話器を押し付けた。
すると「へぇ、へぇ、いつもお世話になってます」と平身低頭。
私たちに対する傍若無人な態度はどこへやらで、米突きバッタのように頭をさげた。
「はぁ、解ってます。そうですね、大事なものですね。解ってますのや、あいつが何を言うたか知らんけど、先生にまでお手を煩わせてすいません」
まるで自分は気持ちよく積立金を渡しているのに、私がウソをついて父を悪者にしたかのような言い草だ。
電話が終わったら、ご想像の通り「何を言うたんや」とキレまくり、怒鳴りまくり、部屋に逃げ帰った私の部屋のふすまを、蹴破られてしまった。
それでも私は「ざまあみろ」と溜飲を下げる想いだった。(つづく)

2017年5月13日 (土)

私が仕事をすると、なぜか男の嫉妬を買った

私は今までの仕事で、何人もの男子を育ててきた。
正社員でも、管理職でもないにも関わらず、なぜか私の下には部下?スタッフがつけられた。

そもそも、私が長くやっていた企画や、広報宣伝などの仕事は、その会社の社員だけでなく、広告代理店や、デザイン事務所、印刷屋さん、イベント設営の会社さんなどなど、数々の外注スタッフが関わるセクションである。
私が関わっていた商社では、営業部門などが「こんな商品を取り扱うことになったので宣伝したい」と企画部門に依頼をしてくる。
そこで商品の内容を私が取材し、誰がどんな風に使うものかを考え、ターゲットを絞って、そこへアピールするための手法を考えるのである。

大きな会社の場合は、丸投げで広告代理店に依頼できる。
代理店が私のやっている役割、商品を把握し、誰に、どんな風にアプローチすればいいか戦略を考え、その施行まで行うのだ。
その場合は会社の担当者は予算範囲内で出来るか、とか、社の意向に沿っているかなど、YES,NOだけやっていればいい。バカな担当者の場合は、本当に代理店担当者と上司のつなぎだけやっている人もいるくらいだ。

いい、悪いの判断さえ出来ない人間はデカイ会社ほど、星の数ほど居る。

しかし中小企業や予算の少ない会社では、代理店に丸投げは出来ない。
代理店の企画料、営業管轄費用が、マージンとして大きく乗るからだ。

その会社の為になるよう考えて、作戦を立て、それがスムースに進行するように数々の業者さんをハンドリングすると言う仕事は、高度で心身ともに労力のいる仕事なのだ。

しかし、私はその代理店マージンの代わりとして、社内に採用された。
本来なら、私の立場でも窓口だけやっていても罪は無いのである。
そういう社員はいっぱいいたのだから。

しかし、それでは費用の面でもクオリティにおいても、満足出来なかったのか。
それとも「業者にいいように操られている」気がしていたのか。
相手とチャンチャンバラバラができるだけの知識と経験を必要とする、ということで派遣の私が抜擢された。

だから、といって、私の時給を合算したら代理店に払う費用とトントンになっていたわけではない。
商品の担当者と協議して企画し、
予算を通すためにデータを集めてプレゼン資料を作り、
実際に会議に出て営業から「詳しくは企画担当者から。。。。」と私がプレゼンし
企画そのものが通れば、制作・企画運営のディレクターであり、進行係りとなる。

セミナーや展示会などイベントの場合は、会場や運営者と交渉し、
当日の内容を考え、そのシナリオを書き、何が必要か、誰が必要かアサインし
中身を作るのはもちろんのこと、実際お招きする「購入見込み客」の方たちへの対応や、イベントの様子を見に来る会社のおエラいさんたちのアテンド手配まで。。。。

なにもかも、である。何もかもやっているのに、ボーナスもなし、手当てもなし、働いた時間だけの時間給合算だったから、年間にして手取りは200万を超えることは無かった。

そんな薄氷の元に社外との窓口であり、社内の司令塔であり、実際のイベントのプレゼンターや司会者としても仕事をしていた。

大卒で普通に企業を選べる人にとっては、重圧と責任だけはあるが、実入りの少ない大変な仕事。

しかし私みたいに高卒で、個性の強いタイプの人間を受け入れてくれる職場は、そういう「誰もがやりたがらない大変な場所」しかなかったのだ。

とはいえ、計画や準備は一人て出来ても、実際に動くとなると当然ひとりでは出来ない。
だからこそ、社員でも、管理職でも、部長でもない立場なのに、司令塔としての私の指示で動いてくれるスタッフを与えられたのだ。

営業部門の若い男の子たち。
企画やイベントの知識はないが、言われたら動ける事務系の女の子たち。
彼らはみんな正社員だった。
そして私にスタッフを預けてくれる、営業部門の上司の人たち。
課長さん、部長さん、本部長さんたちは、とても良くしてくれた。
そりゃそうだ、賢いひとなら私にスタッフを預けることによって、自分たちの商品をアピールする企画が進む=見込み客の獲得に繋がるのだから。

だから私もそういう上司の意を汲んで、ただ指示を出して手伝わせるのではなく
「いま、きみがやっていることは、こういうことなんだよ?」と意味を教え
「いずれ自分がやる時が来たら、こういう時どうしたらいいと思う?」と自分だったら何をしたいか、何をすべきかを考えさせる指導を行っていた。

だから、最初私に預けられたときは
「営業で入ってきたのに、どうしてこんな派遣の女の言うことを聞かなきゃいけないんだ?」的な態度の若い男子社員も、イベントが進む頃には、進んで私の意見を聞き、終わりが近づく頃には「ここ、最初の予定と変わってしまったんですが、こういう風にしておきました、大丈夫ですよね?」と機転を利かせてくれるようになった。

そういう時、私は彼らをワンコのように褒めちぎった。
イイコイイコするばかりでなく、やるじゃん!解ってきたね!さっすがー、と。

「やめてくださいよ、イヌや子どもじゃないんですから~」と言いつつ、彼らは照れ笑いを浮かべながらも、背筋が伸びていった。

仕事の後の飲みの席でも、最初は「派遣の女なんて」とバカにして近づきもしなかった子たちが、どんどん私にお酌をしに来るようになった。
それだけでなく、やたら仕事の質問や、自分の考えていることを話しに来るようになった。

営業マン同士は、ライバルだ。その先輩に教えを請うことは出来ても、なかなか反論や、自分が常日頃思っていることはクチにしにくい。
「お前が言うな、実績もないくせに」とか「解ってないな」とバカにされたくないからだ。

けれど私は企画、という別部門の人間だから、話がしやすかったのかもしれない。

会社の中では、営業が一番エラく、その他の部門は自分たちを支援するための部署でしかない。そんな風にプライドだけ持たされていて、実績が伴わない男子はとても自分自身を居心地悪いものに感じている。

エラそーにしたいけれど、突っ込まれたらどうしようと怯えているのだ。
そんな時に、企画の手伝いに行けと言われたもんだから、自分は上司に見限られたのか?だからこんな派遣の女の手下をやれ、と言われたのかと傷つき、その怒りを私にぶつけてきていたのだ。

しかし、実際私に指示を出され、不満ながらも動いてみると、自分のしたことの成果が目に見えて解る。
自分がやらなかったら、イベントの段取りがどこまで崩れるのか、という恐ろしさも想像が付くようになる。

自分のやることが、誰かの助けになっている。
私がやっている企画の仕事を手伝っていることだけでなく、それは営業がアタックしにいくためにの「見込み客」を取るための仕事だということも、やっと繋がっていく。

一人ひとりの仕事は末端の点、に見えても、それがどういう流れの中にある重要な点なのかを、最終目標を一緒に見据えながら教えてきた成果である。

だからこそ、私と一緒に企画の仕事をして営業に戻ったとき「あいつ成長したわ」と、その上司からよく言ってもらうことが多かった。

派遣の女なのに、男性社員からは頭を下げられ、営業部門の上司たちからの信頼が厚くなり、本部長や社長からも声をかけていただき、ランチや会食に連れて行かれるまでになった。

しかし、ここに私の落とし穴が待ち受けていたのたである。

2017年5月 1日 (月)

大人もルールも、まずは疑って掛かるクセ

私の疑い深い性格はどこから来ているのだろう。
それを考えるとき思い出すのは、やはり幼少期の記憶である。

一番幼い頃の記憶は、まだ保育園にも上がる前。
家の近くの公園に父を連れて行き、鉄棒か何か出来るようになったことを見せようとした時だ。
父は、三つか四つの私がワザワザ「ええとこ」見せてやろうとしているのに、まったく興味を示さなかったばかりか、一言の褒め言葉も無かった。
逆に「なんや、わざわざ来てやったのに、それだけか」
みたいなことを言われて、呆然とする私をズルズル引っ張って連れ帰った。

そのとき幼い私は失望しただけでなく「おやとして、これでいいのか」と思った。

次に印象的なのは引越しをして、近所の保育園に入るころだ。
クチが達者で、おしゃまで素直で、しかもしっかりした子だと、ヨソの人は褒めてくれていた。
しかし、どこでその発言をしたのかは忘れたが、私の発した一言でその場が凍りつき、家に帰ってから母にボコボコにされたことがある。
平手でシバく(はたく)のは当たり前、部屋の隅に逃げ、倒れこんだ私を母はガンガン足蹴にした。
今なら立派な幼児虐待である。

私が何を言ったか、というとヨソの人に「保育所に入るの?」と聞かれたので「お母さん働かなあかんから、私を保育所いれはんねん」と正直に答えただけなのである。

いつも素直になれ、ウソをつくな、といっておいて、
正直に答えたら、なんでボコボコにされなあかんねん

私は泣きながら母を、大人を恨んだ。

この件については大人になってからは、余計に納得がいかなかった。
幼稚園と違い、保育所に入るには、父親の稼ぎだけでは家計が大変だということも、立派な入所条件となる。
あの時の私の発言は、子どもながら正しかったではないか。
役所の人に聞かれたとしても、大正解な発言である。
しかし私はボコボコにされ、足蹴にされ、やいと(お灸)まで据えられた。
ひどい話である。

大人は言ってることと、してることが違う。
親だから、大人だからといって、信用してはいけない。
三つか、四つの私は胸にそう刻み込んだ。

考えてみたら、ちょうどその頃から私には「わたし」とは違う誰かからの声が頭の中に聞こえるようになった気がする。
ちょっとした人格乖離現象かも知れないが、私はその声を頼りに生きていくことになるので、それはそれでいいとしよう。

話を戻すが、保育所でも変なことは多々あった。
私は保育所の中での「おはなしの時間」に、生徒なのに「読み手」の役割を任されていた。
幼い頃から音感がよかった私は、読み書きの能力も長けていたようで、つっかえることなく読め、登場人物を演じ分け、その上「標準語のイントネーション」で読むことが出来たのである。四歳か、五歳で。
だからこそ先生は、私に何度も任せた。
今思うと、私に本を読ませ幼児たちが食いついている間に、先生たちは他の用事が出来たので助かったのであろう。
なんかっつーと「はい、まみちゃんに本読んでもらいましょーねー」とおはなしの時間が開催された。

そんなある日、私は年長さんの上のクラスの三人組から「ちょっと来てやー」と人気の無い場所に呼び出された。
(当時、私は年長さんの下のクラスだったと思う。) 私のすぐ上のクラスには「梅ちゃん」という保育所のマドンナのような存在が居た。
私を呼び出したのは、梅ちゃんの取り巻き連中だった。
背の高いブスと、普通の女子が二人、そして梅ちゃんが居た。
梅ちゃんは来年、一年生になるのだが、すでに大人っぽい感じの子だった。
直接の関わりが無かったため、なんの用事かと思っていたら、背の高いブスにこういわれた。
「なに、イキってんねんな。ここでは梅ちゃんより目立ったらあかんねんで」
イキる。この言葉を私は人生で何度言われたことだろう。
イキる=生意気、エラそー、の他に弱いくせに意気がる、カッコつける・・・などなど要は「気に入らない」ということである。

かといって、私には「ええかっこしょう」とした覚えもないし、必要上にハシャいだ記憶もない。なんのことかと不思議に思っていたら「本読みすんの、やめーやー」と言われた。

なるほど。こいつらにとっては、マドンナであるはずの梅ちゃんより、ストーリーテラーとして目立っていた私のことが気に入らなかったのである。
「先生に頼まれたし、わたし本読むの好きやからやってるだけやけど」
「好きでもやめ、言うてんのや」普通の子がけしかけた。
「梅ちゃんが可哀相やろ」

なんのことなんだ。なんで私が先生に依頼された本読みをすることが、梅ちゃんを可哀相にしているのだ。
その論理展開の不条理さに、私はワケが分からなくなった。

私は面倒くさくなってこういった。
「くだらない。ほんなら、もうよまへんわ」
背の高いブスが言った。
「それでええんや。やっと素直になったやないか

かましわ。引いてやったんじゃ、あほボケが。
五歳の私はまた、心の中で悪態をついた。
まじで、くだらない。保育所の中での派閥争いとか、誰がだれより目立っているとか、ばかばかしいったらありゃしない。

と、私はハラワタが煮えくり返りながらも、戦線離脱した。
理不尽なクレームに戦おうともせず、自分の輝けるステージをひとつ失ったのである。

その後何度か先生に本読みを頼まれたが私は断った。
なんで?と聞かれて「読むな、という人がいるから」と言ったら、先生は「だれ?だれがそんなこと言うの?先生が言うてあげるから教えて」と突っ込んで来てくれたが、私は答えなかった。
事態が余計にややこしくなることを、子供心に悟っていたからだ。

しかし、その後私は自分の判断が正しかったことを知る。
いつも仏頂面でとっつきにくい事で有名な、保育所の園長先生まで、梅ちゃんや梅ちゃんの取り巻きにベタベタと懐かれて、まんざらでもない顔をしているのを目撃したからだ。
その幼児たちは、私を脅したときとはまったく違う女の顔をして「せぇんせぇー?」ときゃっきゃっやっていた。

恐ろしい。あの年で権力者を取り込もうとしてるのか。
私はあの時、簡単に逃げてしまったことを後悔していたが、それで良かったのだと自分を納得させた。
私の理屈が通用する相手ではないのだから。

テレビドラマなどで、キャバクラとか、クラブのお姉さんたちが、政治家や医者などに「せぇんせぇー」とやっているのを見ると、あの頃の梅ちゃんや、その取り巻きを思い出す。

親も、大人も、女の愛嬌も、信用してはいけない。
まずは疑ってかかるのが、やっぱ正解のようだ。

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